軽薄な「自己責任論」ほど『無責任』なものはない、というお話。
いつもはあまり腹が立たない私ですが、今日は非常に腹が立ったある記事を目にして、是非モノ申させていただきたいと思い、書かせていただいております。
人にはそれぞれ「異なった考え」というものがあるのは当然で、それこそ常日頃私も肝に銘じながら、自分の周囲やもっと広い世の中を見させていただいているつもりなのですが、この記事には率直に「賛同できない」と思いました。
読者の皆様がどのように感じられるか、いろいろと「賛否両論」があるかとは思います。
ただ、
これは絶対にお伝えしておきたいことだ
と強く思いましたので、
予定投稿記事を急遽変更して、こちらを先に投稿させていただくことにしました。
今日、ある方の記事で、このような文章を目にしました(直接「引用」で記載させていただいております。「引用元」はあえて出しません。)
■コロナがもたらした二極化、三極化問題
コロナはいろんなところで二極化、三極化をもたらしました。
こういう社会的ショックは
神様が篩にかけるために起こしているのかな
という気すらします。コロナで良くなった人、悪くなった人。
自分に見合った生活習慣に落ち着いた人、
無理な生活を強いられている人。人間関係が
濃密であったかいものになった人もいれば、
希薄になった人もいる。今がとても良い時代に見えている人もいれば、
とんでもない時代だと感じる人もいる。全体的によくなった人は、
コロナ中の行いが原因というよりも
その前から決まっていたんだと思います。これまでの生き様が
結果として顕著に表面に現れたのだと。各々が抱える問題を
ボコッと剥き出しにしてしまった時代だと思うんですね。実直に問題に向き合ってきた人は
明るく良い方向に進んでいる。今、とても楽しく過ごしている。
食べていけること、人の優しさに感謝している。
いつも環境や誰かのせいにしたり、
見栄をはったり虚像の中で生きている人は
それらが自分にはね返ってきている。不安、疑心暗鬼、不信感、恐れ、怒り、被害者意識。
逃げようとしても逃げられない。
どこまでも追いかけてくるものですね。
特に「問題だ」と感じられた部分を「太字(黒)」でハイライトさせていただいております。
「この記事の何が問題なのか」と思われる方もいらっしゃることだと思います。
私自身、多くの人と同様「コロナの影響」というものをそれなりに受けてきてはいるものの、幸いにも「どん底まで到底行っていないレベル」でその「コロナの影響」をほとんどやり過ごせている、幸運な部類の人間であると考えており、これを心から有難く思っています。
その「幸運な部類の人間であると思っている」私でも、そんな私でも、この記事には素直に腹が立ちました。
特に
これまでの生き様が
結果として顕著に表面に現れたのだと。
というくだり。
私の周囲でもそうですし、その方の人生における「個々のイベント」までもは不明でも、明らかにその方の今までの「生き様」が「大変尊敬に値するもの」である場合であっても、
コロナで多大な被害に見舞われて「人生が(悪い方へ)一変してしまった方」は、山のようにおられます。
多くの人々に「善い影響」を与え続けてくれた偉大な方達が「その命を落としている」場合も多々ありました。
また、多くの人々に「善い貢献」をしてきた企業、個人事業主、ビジネスパーソン、専門家が、その「生業(なりわい)」を破壊されました。
更に、個人レベルであっても、自分のために、家族のために、友人のために、謙虚に、誠実に、粛々と自分の人生設計に努力してきた一般の人々が、多くの将来設計や現実の積み重ねを失いました。
この記事の著者である方は、いったい人の(特に他人の)「生き様」というものの「本質」を、どのように捉えておられるのか?
私は非常に疑問を感じました。
おそらく、読み手を「鼓舞するため」に、もしくは読み手に「釘をさすため」に、あるいは読み手を「勇気づけるために」
あえてこのように記事にされていたのかもしれません。そうであることを願ってはいます。
また、この記事に関して、別に何も感じない方もたくさんいらっしゃるとも思いますし、それはそれで、どのようにその意図を捉えようとも、完全にその人の自由です。
しかし、「私」が受けたこの記事の印象としては
「最悪レベルに軽々しい」
という一択です。
私はいつもブログやこの「運ラボ」でお話してきましたが、
人のバックグラウンドというのは千差万別
です。
はたして、この著者の方がおっしゃるように
「コロナでも幸福になれた人」と「コロナで不幸になった人」との違いは、その人の今までの「生き様」による
のでしょうか?
私はまったくそうは思いません。
これは、「その言葉」が世で頻繁に使われるようになってから、私が常に疑問に思っていた、(悪い意味での)典型的な
「自己責任論」
ではないでしょうか。
『(悪い意味での)自己責任論』~これが「虐め」も「モラハラ」も「パワハラ」も世の中から無くならない理由
私は「自己責任論」という言葉が非常に嫌いです。
もちろん「自立」という意味での「自己責任」は非常に重視しています。とても大切なことだと思っています。
「身体的自立」は諸事情によりそれが「困難」な場合もあるのでここには含めないとしても、
「精神的自立」「経済的自立」といった
個人が個人を確立する上での「自立」という意味
であれば、
それは「大いに賛同に値する」ものですし、むしろ「運の研究」の観点からも、こういった「自立」は非常に重要です。
しかし、ここ最近、日本で特に顕著になってきているのは
「他人」による「他人事」への、かなり『無責任』な「自己責任論」
です。
先ほどもお話したように、
人のバックグラウンドというのは千差万別
です。
その「成長過程」や「努力の過程」や「環境的要因」というのは、みな違います。
更には、そういった「成長過程」や「努力の過程」や「環境的要因」がいくつも「組み合わされて」、
他人と比べても全く意味をなさない、その人それぞれの「全く違う独自の今現在」
というものを、作り上げています。
● シングルマザーとして、日々仕事と子育てに全力奮闘しながら「コロナ禍」と戦っている人
● 「コロナ禍」の医療危機の中で、遺伝的な病気と懸命に戦う少年
● 「マジョリティーの社会」に生まれて「マイノリティー的な差別」と「コロナ差別」とのダブルで戦いながら、自分のアイデンティティーと向き合う人達
● 自分の「夢」は一度横に置いて、家族のために毎日時間やエネルギーを注ぎながら「コロナ禍」にも対処している夫・妻
● コロナ禍で「経営破綻」ギリギリの状態で、自分の会社で雇用している従業員の生活を守るために「自分そっちのけ」であちこちと奮走する、中小企業の経営者達
● コロナ感染者を救うために、自ら感染の危険性をおかして治療に邁進する医療従事者、そしてそこで命を落とした医師・健康を失った看護師
彼らの「生き様」に「問題があった」から、彼らは「コロナ禍で不幸になった」のでしょうか?
少なくとも「私」には、この著者が言う「生き様」と「コロナ禍で不幸になったこと」との間に、なんの『因果関係』も見つけられません。
「自己責任」という言葉は、何のためにあるのでしょうか。
だからこそ、
「虐め」も「モラハラ」も「パワハラ」も、この世の中から無くならないんだな
と強く思った次第でありました。
皆さんは、どう感じられますか?
皆さんがどう感じられるかを、是非是非お聞きしてみたいな、と思います。
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