「自分の機嫌」を自分で取れない人が続出~「承認欲求止まりの人」が多すぎる世の中が心配、というお話。
以前、外部のブログサイトで記事を書いていた時に、人が持つ
「承認欲求」
について、改めて深く考えさせられたコメントを、とある読者の方からいただいたことがありました。
これについて、以前から一度記事にしておきたいと考えていました。
「承認欲求」とは、もう読者の皆様も当たり前のようにご存じの、
「自分の価値」や「自分の存在意義」を「他者からの承認」によって満たしたいという欲求
のことですね。
本来、人間であれば、自分の考え方や行い、努力の過程や成し遂げた結果などを「自分以外の他者に認めてもらいたいという思い」は「元々誰もが持っている」ことだと思います。
自分の考え方に共感してもらえる。自分の行いを認めてもらえる、自分の努力を評価してもらえる。自分の成し遂げた結果を賞賛してもらえる。
このような時、私達は誰もが素直に「他者から認められて嬉しい」と思うことが多いでしょうし、ましてや悪い気持ちになることはほとんどないでしょう。
そういった「他者からの承認」によって、自分の気持ちが盛り上がったり、今まで以上にやる気が出たり、自分が誰かの役に立っている・世の中の役に立っているという「自己有能感」を十分に感じることができることもあるので、「他者から承認してもらえる」ということには、それはそれでよい面もたくさんあります。なので、これはこれでよいのではないかとは思うのですが、
その反面、
何事も程度問題である
というのがこの世の現実(苦笑)。
自分の「自己有能感」というものを、常に「他者からの承認」のみで満たし続けていると、確実に「弊害」が生まれます。
「他者からの承認」なしでは自分の心が満たされない、「他者からの承認」なしでは自分の機嫌が取れないというループにハマってしまうと、
確実に「他者からの承認中毒」になってしまいます。
私はこの状態を、
▲ 他者からの承認依存症
と呼んでいます。
現に、こういった「他者からの承認依存症」に陥ってしまっている人を、しばしばお見かけすることがあります。
部活動や運動や趣味でのサークルなどでも、
「自分自身に掲げた目標を達成したいから」「自分のやっていることが好きでしかたがないから」という「自分軸」の理由ではなく、
「この目標を達成すれば、周囲の人からよく思われるから」「これをやれば、周囲から素敵だと思われそうだから」などの「他人軸」」の理由で、
その目標や行動を決めている。
その目標や行動を掲げている本人は「完全に自分軸で生きている」と思い込んでいるのですが、
その「判断理由」や「意思決定」の根底にあるのは、常に「他人にどう思われているか」という『他人軸思考』です。
当然、自分自身にその「権利」があるはずの、自分自身に関するありとあらゆる判断・選択・決断・実行の「基準」が、常に「他人前提」となってしまっています。
▲ 何か目標を定める時、常に「他人にどう評価されるか」でその目的基準を決めてしまう
▲ 何か行動に移す時に、常に「他人に認めてもらえるのかどうか」でその行動基準を変えてしまう
▲ 何か発言する時に、常に「他人にどう思われるか」でその発言基準を七変化させてしまう
▲ 何か選択・決断する時に、常に「他人にどう見られるか」でその選択・決断を撤回(又は強行)してしまう
というように、
自分の人生なのに、常に一貫性のない『風見鶏』みたいな生き方をしているように見えてならない人が、とても多いのですね。
『自分軸』がない
印象です。
そして、そのことを、やっぱり本人が気づいていない。
「人に認められて」初めて幸せを感じる。「人と一緒で」初めて安心する。
絵を書くのも、スポーツに打ち込むのも、そのブランド品を身に着けるのも、そのファッションに身を包むのも、そのSNS投稿も、なにもかもが
他人に認められたい=承認欲求
をベースに行われている。
本人は完全にその「対象」に没頭しているつもりなんでしょうが、本人も気づいていないうちに
他人に対して常にポーズをとっている
ような感じになってしまっているのですね。
「真の自分」で生きていない。本当は「自分が求めるからやっている」のではない。
そうすると、なにをするにも「相対的」にしか満足できない。
「相対的=他者との比較・他者からの注目をもって」でしか、自分の考え方・行動・発言・判断・選択・決定に「自信が持てない」。
だから、
常に、自分のやっていること、自分の成し遂げてきた事に「真に満足することができない」
という、フラストレーションに晒され続けることになります。
つまり、
「承認欲求の程度が特に強い人」というのは、何をしても「常に不満を抱え続ける」ことになります。
またそういう「承認欲求の程度が特に強い人」は
▲「他人からの承認」を強く求めつつ、同時に、その「他人からの承認」はあくまでも「自分自身が望む形でなされるものでなければ満足できない」という特徴
を併せ持っていることが多いです。
自分自身の中に「矛盾」があるわけです。
なので、ますます「簡単には満足できない」状態になっていきます。
これも、「承認欲求の程度が特に強い人」が実際には「他人軸」で生きているのにもかかわらず、「自分軸」で生きていると思い込んでいることが原因ですね。
「承認欲求」の対極にある「自己完結欲求」
「自分の価値」や「自分の存在意義」を自分自身で見出すことができない人=他人の評価に乗っかることでしか人生に満足できない人
とお話してきましたが、それでは、
「承認欲求」を完全に排除して、純粋に「自分軸」で人生に満足しきることが可能な人、というのは、一体どういうタイプの人なのでしょうか?
私が見ていて、「自分軸」で人生に満足しきることが可能な人というのは、
★「自己完結欲求」をベースに判断、選択、目標設定、行動、反省できる人
ですね。
★ 自分が物事を判断、選択する時、何か目標を設定して実際に行動する時に「他者からの承認」の必要性を感じず、その行動から次のステップに繋げるための「反省」や「ブラッシュアップ」を「自らの信念のもと」にできる人
です。
★ 「自分の中で自己完結できる」「自分の機嫌を自分でとれる」「自分を自分で満たせる」
と言い換えることも、できるかもしれません。
●ジムに通いスポーツにいそしむのも、純粋に自分が気持ちいいから。純粋に身体が鍛えられていくことが快感だから。純粋に自分の健康にとってよいことだと思えるから。
●ある服装をするのも、純粋に自分の気分がいいから。純粋にそのスタイルやファッションが好きだから。純粋に「自分らしい」と思えるから。
●あるブランド品を持つとしても、それは、純粋に「自分がそのブランドを好き」だから。純粋にそのブランドのデザイナーを尊敬していたり、ブランドコンセプトに共感できるから。
●魚釣りやキノコ狩りに出かけるのも、純粋に自分が魚釣りやキノコ狩りが好きだから。純粋に楽しいから。純粋に釣れた魚や採れたキノコを「収穫」として自分で味わえるから。
ジムに通ってスポーツに通じている自分を「他人が自分をカッコ良く思ってくれるから」ジムに通ってスポーツにいそしむのではない。
その服装やファッションや髪型やメイクをすることで「他人が自分をイケてると思ってくれるから」その服装やファッションや髪型やメイクをするのではない。
そのブランド品を持つことで「他人が自分を『上』に見てくれるから」そのブランド品を持つのではない。
魚釣りやキノコ狩りの「収穫」を「人におすそわけして『感謝してもらう』のが前提」で魚釣りやキノコ狩りに出かけるのではない(*自分が楽しむことを最優先して得た「収穫」によって、結果的に相手が「喜んでくれる」のは、大いにオッケーです)。
これが
★「自分軸」と「他人軸」との違い
です。
「自分ありき」→その結果、他人に承認してもらえることも「あるかもしれない」(それならそれで「WIN-WIN」だよね)
というのが
★「自己完結欲求」に従って「自分軸」で生きている人の強さ
ですね。
「マズローの欲求5段階説」にちなんで「ジャミ―ロの欲求3段階説」を説く。
読者の皆さんのほとんどは、おそらく
「マズローの欲求5段階説」
というのを、聞いたことがあるかと思います。
「マズローの欲求5段階説」は「マズローの自己実現理論」とも言われ、アメリカの心理学者アブラハム・マズローにより提唱された理論であり、
人間を「自己実現に向かって絶えず成長する存在」と仮定して、その人間の欲求を『5段階の階層で理論化』したもの
です。
マズローは、人間の欲求というものは、
❶「生理的欲求⇒❷「安全の欲求」⇒❸「社会的欲求」⇒➍「承認欲求」⇒❺「自己実現の欲求」の5つの階層順に満たされていく
と仮定しており、
人間の欲求というものは❶が満たされない限り決して❷へは移行せず、それが❸以降、最後の❺まで例外なく当てはまる、と言っています。
「マズローの欲求5段階説」は、よく「ピラミッド」形状で説明されていますよね。
「マズローの欲求5段階ピラミッド」
マズローの欲求5段階説とは|モチベーションの優先度を示す理論 (theory.work)
現代の社会、特に「インターネットの普及」「SNSの普及」そして「AI技術の進歩」の影響を受けた現代の社会では、このマズローの
『➍「承認欲求」止まりの人』で溢れかえっている
ように思えてなりません。
マズローの欲求5段階説を見ているとよくわかりますが、「➍の承認欲求」までは、いわゆる
欠乏欲求でしかない
のですね。
私が先ほどからお話してきている『「自己完結欲求」に従って「自分軸」で生きている人』=「自分で自分の機嫌をとれる人」「自分で自分を満たせる人」というのは、この「欠乏欲求」を「完全にクリア」して、全く新しい次元の「成長欲求」の段階に入っている人達です。
マズローの欲求5段階説ピラミッドでは一見繋がっているように見える「欠乏欲求」と「成長欲求」のステージですが、
実際には、この「欠乏欲求」のステージと「成長欲求」のステージとの間には、質的・量的、そして「次元的」に「決定的な境界線」が存在しています。
つまり➍「承認欲求」(欠乏欲求の最後のステージ)と❺「自己実現」(成長欲求の最初のステージ)との間の『絶対的な差』ですね。
❺「自己実現」(成長欲求の最初のステージ)に入っている人というのは、先ほどの「自己完結欲求」に従って、まさに自分自身の理想にのとった「自己実現」を目指すレベルに来ている人達です。
彼らにはもはや「他者からの承認」など必要ない。
もちろん「実際の生活レベル」では、その❺「自己実現」(成長欲求の最初のステージ)に入っている人の「生活における分野」の間に、多少の「自己完結欲求の差」があるのは否めません(例えば「仕事」においては、もはや「自己完結欲求」にのっとった「自己実現」のレベルで生きていても、「子育て」においては、「親として、子供と一緒に成長している」という意味合いで、まだまだ❷の「安全欲求」のステージにいるかもしれません。)。
生活の中の「ある分野」では既に❺の「自己実現」のレベルを生き、別の「ある分野」では一生懸命に次のステージに移行している「過程である」ということもあり得ます。
それはそれで「現実的」な自己成長過程にあると言えます。
しかし、
自分自身の「コア」である「判断」「選択」「意思決定」「目標設定」「実際の行動」「反省・検証」「次のステップに繋げるための反省」「ブラッシュアップ」に関しては、「自らの信念のもと」に「自分軸」で「自己完結」していく。
これは、「欠乏欲求」の段階をほとんどを乗り越えて真に「成長欲求」へと「移行」できていないと、決して発現できない有り方なのですね。
マズローは、親切にも「人間の欲求」を5段階に分けて具体的により細かく提示してくれていますが、
私(ジャミ―ロ)は、あえてこの5段階を
『3段階』
に、ひとまとめにくくって考えています。
【ステージ1】❶「生理的欲求⇒❷「安全の欲求」=『生存欲求』
【ステージ2】❸「社会的欲求」⇒➍「承認欲求」=『欠乏欲求』
【ステージ3】❺「自己実現の欲求」+⑥「その後の『自己超越』のステージ」=『成長欲求』
といった分け方です。
【ステージ3】でいるつもりが、実は【ステージ2】に留まったまま、という人が多いこの世の中。
●「その目標」は、真に「自分の中から沸き上がる目標」なのか。
●「その願望」は、真に「自分が求めてやまない願望」なのか。
●「その判断」は、真に「自分の心や思考が決定を下している判断」なのか。
●「その価値観」は、真に「自分の経験値や自分の直感からくる価値観」なのか。
多くの人に、もう一度立ち止まって考えていただきたいと、深く考えさせられる今日この頃です。
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