みなさん、こんにちは!
今日は、「運」とも密接に関係のある、私達の
「才能」
について、お話していこうと思います。

どうやったら自分の「才能」を見つけられるか?
どうやったら見つけた自分の才能を発揮できるのか?
どうやったら発揮し始めた才能を潰されなようにできるのか?
誰もが、一度は考えたことがあるのではないでしょうか。
「自分の才能」について。
結論から言うと、実はどんな人にも、ある程度世の中に役立つことのできる「才能」というものはあります。
ただ、その「才能」を、自分自身で自覚できていない人の、なんと多いことか。
「運」の研究をしてきている私から見ても、「この人には才能がある!」と感じられる人は、実は本当に沢山います。みな、ごく普通の生活を送っている一般の方々です。
ただ、いろいろな場面で、彼らの「才能」に触れる機会があって、私がそのことをそれとなく伝えてみると、みな、意外な顔をして尻込みしてしまうのですね。「それとなく」でも結構ストレートに私が話すからでしょうか(苦笑)。
その度に、いつも思うことなのですが、「もったいないな」というのが正直な印象です。
「才能」と聞くと、何か特別な価値を備えたカリスマみたいに受け止める人が多いのかもしれませんが、「才能」というのは、
その本人の内側から自然に溢れ出す得意分野の能力の中で、
その才能を発揮する自分自身を幸福にし、なおかつ
自分以外の人々や社会全体にとって、なんらかの役に立つ能力
のことです。
そして、
「才能」と「貢献」は必ずセットになるべきものです。
逆に、その「才能」と思える能力に「貢献」が伴っていない場合、それは本当の意味での「才能」ではない、というのが私の見解です。
自分の能力を自分のために使うだけの段階では、その「能力」は、まだその本人にとっての「ある一種の能力」でしかありません。そこに世の中に「貢献」していく、という意識が伴って、初めて「才能」へと進化していくのではないかと思っています。そこでようやく、実践レベル・具現化レベルで「才能」が輝き出すのです。
多くの人に「愛される」のが「才能」ですから。
「貢献」とは、「WIN-WINの関係」です。自分の才能を発揮することによって、その本人が生きがいや遣り甲斐で満たされてより「幸福」になり、同時に「貢献」を受ける人々や社会全体がどんどん発展していく。双方にとってとてつもない意義と可能性を秘めているのが、「本物の才能」なのです。
しかし、世の中の現実として、幼い頃その「才能」の片鱗が見え隠れしていたのにもかかわらず、また、元々誰が見てもはっきりと確認できていた本人の「才能」が、なんらかの「外的要因」によって本人の中に抑え込まれていってしまう、ということがよくあります。
場合によっては、ある程度その「才能」を発揮し始めたところで、やはりなんらかの「外的要因」によって潰されてしまう。
「才能」が日の目を見なかったり、ある時点で消されてしまうことの原因のほとんどは、本人の「内的要因」ではなく、だいたいは「外的要因」-環境的なミスマッチ、周囲の人々の「才能」に関する不理解、その「才能」そのものが社会的に認知されていない-等によるものです。もし本人に「内的要因」がある場合、それは、先ほどの「外的要因」によって心理的に負荷がかかった結果、その本人の「才能」が委縮して、長期的に発揮されない状態に陥ってしまっている、ということがほとんどです。
そうやって、自分でも気づかないうちに、日々の忙しさに押し流されてどんどん「才能」が埋もれていってしまい、まさか自分自身に、世の中に貢献できるような能力があるかもしれないことなど、忘れ去ってしまうというわけです。
なので、このブログの読者の方の中にも、本当はある「才能」を秘めていているのに最初から気付いていない方、随分昔にそういった「才能」を使っていたことを忘れてしまっている方、自分でもなんとなくそのことに気づいているところがある方、実際に「外的要因」のためにその「才能」を追求すること自体をあきらめてしまった方、というのが、一定数いらっしゃるかもしれません。
「才能」を見抜くポイントは、「他の人達と比べて、あまり苦労なく上手くできる事柄」に隠されていますが、「才能」という言葉自体、何か、漠然とした特別感だけが独り歩きしてしまっているような印象を与えてしまうこともあります。だからこそ、最初にお話したように、一般の私達が、誰か別の人に「才能あるね」と言われた時に、なんとなく気恥ずかしさとあいまって、尻込みしてしまったりするのです。
もっと「才能」を細分化して、具体的にどのような能力に関係することなのか、私達自身が掘り下げて認識したほうが、より自分自身の隠れた「才能」を自覚しやすいのです。
基本的に、私は「才能」を3つの種類に分類して診るようにしています。
1つ目の「才能」の種類は、『コアの部分にかかわる才能』です。
「コアの部分にかかわる才能」とは、誰が見てもすぐに突出した才能であるとわかる具体的な才能です。「芸術分野」や「科学分野」で顕著に際立った才能、と言えばわかりやすいでしょう。
音楽(楽器演奏、声楽、指揮)、美術(主に絵画、彫刻、建築など)、文学・映像(小説、映画、舞台芸術など)、数学(新しい数学の定理や方式を発見・構築するなど)、科学(ノーベル賞級の発見や発明を化学分野、物理分野、医学分野などで達成するような学問的能力)、などの、要は、各分野の「コア」の部分に関わる、非常にわかりやすく突出した才能=「ピンポイントの才能」ということになります。)これがビジネス分野であると、短期間に社会に多大な影響力を与えつつ、大きな利益を出し続けるような才能、となります(ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズ、マークバッカーザーグなどが、非常にわかりやすい例ですよね)。
普通、一般に「才能」と呼ばれる突出した能力は、この1つ目の『コアの部分にかかわる才能』のことを指す場合が多いようです。
だから、その突出したピンポイントの『才能』がノーベル賞級であったり、オリンピック級であったりするために、私達のような一般人が、通常の生活では体験できない・(ましてや)自覚しずらい才能の分類なのです。
2つ目の才能は、『上のコアの部分以外の全てを網羅する才能』です。
各分野での具体的なピンポイントでの才能とはまた違い、そのコアの部分以外の全て-例えば、俳優・女優さんのような人の意識や注目を集めるような魅力・カリスマ性そのもの、IQやEQの高さそのもの、博学さそのもの(ずば抜けた知識の豊富さ)、IQ以外の知能全体の高さ(様々な分野をまんべんなく網羅しているような知恵を持っている)、新しものを無限に生み出す創造性・クリエイティビティ、リーダーシップ、人の心を掴む人柄、何かにハマれる集中力、強い好奇心、手先の器用さや技術的な能力、人に何かを教える技術、多様性を受け入れることのできる人間的器(うつわ)、世界中に何年も冒険旅行に出かけてしまうような行動力、仕事や勉強などの生活全般における並外れた実行力など-具体的にピンポイントで突出した才能以外の全ての部分です。
イメージとしては、1つ目の『コアの部分にかかわる才能』が、天才的な能力としての『才能』、
2つ目の『コアの部分以外の全てを網羅する才能』が、(守備範囲の広さとバランス感覚の良さでいうところの)秀才的な『才能』、
のような感じで捉えることができるかと思います。
この2つ目の『コアの部分以外の全てを網羅する才能』が、私達一般人の多くが実は有している『才能』の種類です。目に見えて分かりやすい1つ目の才能とは違った、いわゆる、生きていく上での技術、世渡りの上手さ、人間関係を円満に築くスキルなどに関係する才能ですね。
この2つ目の、様々な種類のコア部分以外の才能は、人によっては、複数をまんべんなくバランス良く持っていたり、人によっては、これらの才能の内、ある一定の範囲の能力に特化して長けている場合もあります。
1つ目の『コアの部分にかかわる才能』が天才型の才能として、世の中に多大なインパクトを与える能力であるとすれば、
2つ目の『コアの部分以外の全てを網羅する才能』は秀才型として、より実社会に役に立つ実践的な能力の数々です。
1つ目の『コアの部分にかかわる才能』は、人々に感動や喜びを与えるという形で世の中に『貢献』し、
2つ目の『コアの部分以外の全てを網羅する才能』は、実際に人々の生活や社会の発展に役立つ知識や技術と言う形で、世の中に『貢献』することができます。
そして3つ目の才能が、1つ目の『コアの部分にかかわる才能』、2つ目の『コアの部分以外の全てを網羅する才能』をそれぞれ発揮する上での『「良心」となる才能』です(これが実は一番重要な種類の「才能」かもしれないと、私は思っています)。
『「良心」となる才能』とは、一体どういう才能かと言うと、
どんな時にも、自分が持って生まれた『才能』・自分が磨いてきた能力や『技術』を、「良い目的のために使う」ことに徹することができる才能です。要は「責任感」を自発的に感じられるかどうか、です。
「良い目的のために才能を使う」とは、それこそ、関わる人や社会全体に『貢献』することを指すのですが、現実問題として、才能や高い能力を持っている人が、この『貢献』というコンセプトを理解できていない場合や、本人の自己愛が強い場合、この才能や高い能力を
「利己的な目的のためだけ」
に行使しようとするんですね。
本人が自分の才能や高い能力を誰のためにどう使おうが、基本的にその本人の自由ですし、その基本的権利が当の本人にはあります。
しかし、才能や高い能力を与えられた人には「責任がある」というのが、私の考えです。その「責任」とは、人並み以上の才能や能力を与えられた人が、その恩返しとして世の中に『貢献』するという姿勢を持つ、ということです。また才能を使って世の中に『貢献』したほうが、自分自身の才能をより有意義に生かせるし、自分自身が多くの人の役にたっていることに対する幸福感や至福感も違ってくるからです。
先ほどもお話しましたが、
『貢献』とは、『WIN-WINの関係』を常に念頭においてベストを尽くしていく
ということです。
『WIN-WINの関係』を構築していくのにはとても責任が伴います。「義務」という意味での責任ではなく、「自発的な責任感」が必要となってくるのです。要は
『自分の才能をミッション(使命)として捉えられるかどうか』
ということです。
与えられている類まれな才能や高い能力を、自分の『ミッション(使命)』としてしっかりと生かして伸ばしていく、という責任感があるのとないのとでは、ずっと謙虚に学び続ける姿勢や、世の中に貢献できる実現度が大きく変わってきます。
逆にこの「責任感」がないまま自らの才能に溺れてしまうと、
「才能が暴走するリスク」
が高まってしまうのです。
なぜなら、この「責任感」が欠如した状態だと、『才能』と『人格』のバランスが取れなくなるからです。
『「良心」となる才能』を持ち合わせていない人が、1つ目の『コアの部分にかかわる才能』や2つ目の『コアの部分以外の全てを網羅する才能』の突出した能力部分だけに溺れると、世の中のパターンとして、人格に障害がある「サイコパス」や「ソシオパス」などの人格障害系の人物が、その『才能』を悪用しにかかる、ということが起こってくるのです。
これは、『「良心」となる才能』が欠如した状態でいる才能ある本人を、そういった人格障害系の人達が利用しにかかる場合と、
『「良心」となる才能』が欠如した状態でいる才能ある本人自身が、自己愛のために人格障害系の人達と同じような行動をとって、別の被害者が発生してくる場合と、があります。
また、良心持って才能を使いこなそうとすれば、必ず何らかの形で社会に貢献でき、自分自身も心の平和や生きがいなどの幸福感を得続けることができるにもかかわらず、良心となる才能が欠けて、突出した才能部分だけが暴走した結果、世の中からの正当な評価を得ることができずに自分の世界に籠るようになります。
才能を、自分のためだけに使おうとすればするほど、「孤独」に陥っていくのですね。
才能に溢れる人や、歴史上の天才たちの中で、残念ながら自分達の才能を生かしきれずに、また貢献することもできずに、埋もれてしまった人達もまた、活躍している才能に溢れる人達の影に沢山います。自分の存在が自分自身の『才能』を支えきれずに、押しつぶされてしまった結果です。
だから、私達のような一般の人達が自分の『才能』を見つけてそれを生かしていく一番の王道は、まずは3つ目の『良心の部分としての才能』を持てるように自分自身を律し、なおかつ、2つ目の『コアの部分以外の全てを網羅する才能』を見つけて伸ばすことにフォーカスする。更に、より現実的に自分の能力生かしていくために、しっかりと「努力」していくことです。

【編集後記】
私は、8年ほど前にブログを立ち上げてから、日々のあまりの忙しさに一時期情報発信を中断していたのですが、数か月前からより新しいコンセプトで再び記事を書くようになりました。私はある強烈な経験がきっかけとなって、22歳の時には既に「運の研究」をライフワークの一つにしよう!と心に決めていました。それをやっと実行に移しだせたのが30代以降だったのですが、本当に、誰にとっても生きているといろいろなことが起こります(苦笑)。
私自身のことをちょっとお話しますと、私は、運勢的に「ジェットコースター運」という超波乱万丈気味の宿命を持っています(苦笑)。要は、人生が平坦に平和にゆったりとは行かないんですね。良いときと悪いときの落差が激しすぎたり、物事の展開が早すぎたりするわけです。
その分、非常にユニークな経験をたくさんできたり、普通の状態よりも多くの物事を成し遂げることができたりするのですが、精神的・肉体的負荷も相当あります。同じように頑張っている周りの人達が小休止でつかの間の休憩をしたり、次のステップに進むまで比較的自由に過ごす時間が得られていても、私の場合、間髪入れず、克服しなければならない事柄が矢継ぎ早に次から次へとやってくるのです。
ここでちゃんと向き合って、受け止めて乗り越えると、その都度、問題解決能力が各段に上がるのですが、受け止めきれずに流してしまうと、速攻で代わりの似たような問題が発生して、私を絶対に逃がさないわけです(乗り越えるまで・苦笑)。
思い返しても、この「ジェットコースター」という言葉は自分の今までの人生全般にピッタリと当てはまっていると思います。もの凄い人生トレーニングをさせていただいていることはわかっていても、あまりにも辛いと「なぜ自分だけが!?」と思うことも多々ありました。でも今では、その意味も理由も実感できるんです。
「苦労が多い人生」「逆境や困難に見舞われやすい人生」って、実はとてもユニークなことだからです。それを乗り越えるだけのエネルギーや、ここぞという時の「火事場の糞力」的パワーに、実は恵まれている人が多いです。それだけ運勢的に「負荷」をかけられているのには必ず理由がありますし、また負荷をかけられればかけられるほど、魂も、心の強さも、現実世界での実力も鍛えられるんですね。
「厳しい運を生まれ持ったのには『意味がある』
のです。
そして、「運」とは「エネルギー」だ、とよくお話していますが、「物事は全ては繋がっている」ということを常に意識して日々を送ることで、苦労や逆境が、実はそのまま「次の運の到来」へと絶妙に繋がっていることが、徐々に理解できるようになっていきます。
日常的な事柄も、心理学的な心の問題も、哲学的な本質も、スピリチュアルな考え方も、科学的な現象も、体や脳などの肉体的なことまで、本質的には全て繋がっており、自分を高めるためにいい意味で利用できるものなのですね。それをこのブログで少しづつお伝えしています。
これからもいろいろなアプローチとトピックで、説明できていけたらと思っています。
特に、私達が上手に扱おうとしている「運」もそうなのですが、私達の「幸せ」に密接に関係している『自己肯定感』や、私達の「生きがい」に密接に関係している「才能」についてのお話などは、これからもブログのあちこちでお話していこうと思っています!
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